子どもの頃は「神童」、
でも“スクールカースト3軍”だった

子ども時代、私は「天才」と呼ばれていました(笑)。
母親が教育熱心だったもので、姉が叱られる姿を横で見ながら、「自分は叱られたくない」という思いで生きていたんだと思います。勉強ができたので、「自分は天才」とうぬぼれていましたが、当然そんな奴は嫌われますよね(笑)。
友人関係においては、特定の人と仲良くすることができず、教室でガヤを入れるタイプ。周りの人を笑わせるのに必死でしたね。
姉の少女漫画を読んで「高校生になったら自分にもホットな恋愛が訪れるだろう」と夢見たこともありました。しかし、中高時代の私は“スクールカースト”に当てはめるならば3軍。成績はトップで、陸上部でインターハイにも出場しているにも関わらず、全くモテませんでした(笑)。
将来の夢はアル?ナシ?
“一番いいところ”に行くことだけを考えていた

「いい学校に入って、いつかスゴイことをする」ことだけを目指していました。
父は鉄工所を営んでおり、子どもの頃から父の働く姿を間近で見ていました。体育倉庫を作ることもあれば、近所の池にフェンスを設置したり、道路にある溝に蓋を被せたりしていましたね。私も一緒に手伝うこともありました。目立たないけど、誰かの危険を確実に防ぐために働いてる父を、「これこそ真のヒーロー」だと思って誇らしく感じていました。
誰かの役に立つ。それが仕事なのだということを、深く胸に刻みました。
しかし父からは「お前は頭がいいから、絶対にこんな仕事を継ぐんじゃない」と言われてしまいます。もしかしたら、勉強をもっと頑張れば、もっと誰かの役に立つ仕事があるのかもしれない。学校も会社も、きっと一番いいところに行けば、一番いい仕事が待っているんじゃないか。父の言葉から、そう考えるようになりました。
ここが人生ハイライト
大学デビュー!
そして、情報が人間関係を変えることに気付く

一番いいところってどこだろう? よくわからなかったので、ノーベル賞受賞者が一番多かった京大理学部に進学しました。勉強はできても所詮高校生。考えは浅いものでした。
それまで仲の良い人ができなかった私。ところが、大学で髪の毛を染めて騒がしくしていたら、みんなが寄ってきてくれて・・・いわゆる大学デビューです!そこで、愉快な人間関係を学べた気がします。
その成功体験の最初に、クラスの名簿作りがありました。偶然、新入生の名簿委員に指名された私は、講義情報から趣味嗜好に至るまで、聞きたいことを詰めこんだ名簿を作りました。すると名簿の効果で、それまで疎遠だった学生たちが次々と関係性を構築し、助け合いをするようになりました。
人間関係という曖昧なものが、情報というもので左右されることに、不思議な気持ちになったのを覚えています。それが今の名簿サービス事業につながっているのかもしれません。
学籍番号って何……?
自分の番号が分からず授業を受けられなかった

私にとって人生最大の過ちはおそらく、大学の入学当初に「知ったかぶり」をしてしまったことでしょう。
「何かスゴイこと」をしたかった私は、「実践!スタートアップ論」のような授業に大変興味を持ちました。いざ履修申請をしようとすると、そこには学籍番号を書く欄が。「学籍番号ってなんだ……?」学籍番号という言葉すらわかっていませんでした。
もちろん、先生や教務課に聞けばすぐに分かるはずなのですが、なぜか私はそこで知ったかぶりをしてしまったんです(笑)。クラス番号+出席番号の組み合わせかな?なんて想像をして提出するも、それは間違った番号で……。授業を受けることができませんでした。
私にも、大学生スタートアップとして成功する未来があったのかもしれませんが、こんな単純なことでそのチャンスを失いました。その結果、スタートアップを始める機会は20年後になってしまいます。
現実の仕事に戸惑う。

大学時代は、脳と機械の融合にロマンを感じ、関連する研究室に進みました。しかし、誰かのためになる実感は湧きませんでした。そこで、就職は、将来の親の介護なども考えて、実家から通えるITの会社を探し、富士通研究所を選びました。
しかし、・・・「え、いまさら電話の研究ですか?」
会社に入って最初に割り当てられた仕事は、NTTなどの大手通信会社に向けた音声通話の研究でした。当時、すでにGAFA(Google、Apple、Facebook (現Meta)、Amazon)が躍進しており、若い感性は、電話を研究するのはちょっと筋悪ではないかと思ったわけです。
それは職場としても十分に認識している話でした。しかし、当時、固定電話が最大の収益源だった通信業界において、自分の給料がどこから出るのかを考えれば、仕事でやる研究は、「お金を出してくれる電話事業に関連するもの」というのも正しいのでした。
ややこしいことに、実際にインターネットでの音声通話には課題がありました。データ通信と同時に通話すると音声が途切れてしまう問題もありましたし、業者間をつなぐ際にどちらで品質が悪くなったかを調べる技術も必要でした。
その研究をやるべきである、すべての理屈が通っていました。標準化団体は、世界中の研究所に解決策を募り、いい技術を提案した会社は「特許プール」に登録され、利用者からお金がもらえる仕組みまで作られていました。
すべての理屈が通っているからこそ、この取組は大量の会社で少ないパイを奪い合う戦いになりました。そして、世界中の電話会社が同じ研究領域に投資をして、ほとんどの会社は投資分を回収することなく撤退することになりました。
職場が迷走しているときに、
社員はどうするべきか

時代は変わるものです。本当は不要になった事業でもなかなか終えることができません。本当はもう無理だとわかっていても、部署のトップは自分のポストとみんなの雇用を守るために「継続的に頑張る」という選択を選ぶことがあります。
そんな時は、部下としてどうするかを選ぶ機会です。トップを信じて仕事をやってみる人、静かなる退職をする人、部署異動を試みる人、転職する人。すべていました。
トップを信じた人はほんの少し早く出世しました。静かなる退職を選んだ人は株などで資産を増やしていました。部署異動を試みた人は、社内でより成長できる職場を見つけました。転職してベンチャーの執行役員になって、上級幹部として帰ってきた人もいました。
(反面、先のない部署における出世は停滞しがちで、積極的でない人には面白みのない仕事がアサインされがち。異動や転職した人のうち連絡が取れるのは成功した人だけになりがちです。それぞれの選択肢によってそれぞれの明暗があるようです……。)
私は、いずれでもなく、元の部署にいたままで、新しい事業を生み出すための研究活動を10年以上続けました。非効率な部署の資金で革新的なことをすることこそ、最も資本効率が良いと考えたからです。
役員に勉強会を依頼したり、自分の提案をプレゼンにまとめたり、自分でプログラミングを頑張ってみたり。研究の深化と社会実装のためにがむしゃらにやってみました。そんな私の「がむしゃら」を見ている人はいて、部下をアサインしてもらうことも、開発資金が流れてくることも増えていきました。
転機は向こうからやってくる

挑戦は失敗だらけです。40代になって体力面でも自信がなくなり、家族関係においても「老いた両親をもっとサポートしたほうがいいのではないか」「仕事ばかりで子どもに愛情を注げていないのではないのだろうか」などと考えてしまう日々。
20代30代は全力で突き進んでいましたが、40代になって迷いが増えているのも今の私のリアルです。しかし、転機は次々とやってきます。
地方拠点の終息によって本社に移動すると会社の偉い人との会話が増えました。私の取り組みは社内で知られるものになり、平社員のまま20人に指示を出す立場になることもありました。社内の新規事業プログラムに見事当選したところ、異動によりメンバーは6人に減りました。必ずしも、思い通りにはいきません。
そして、現在。私は会社に雇用されつつ、会社の出向命令によって「自分の会社」を経営する社長になりました。経産省の出向起業の仕組みに沿った出向起業です。夢見たけれど、実現するとは思わなかったことが起きています。
これからも、何が起こるかはわかりません。ただ、私なりに全力で頑張ってきたから、今のチャンスがあるのだと思います。私の全力が、誰かの役に立つ未来であってほしいと願っています。
“綺麗”に生きることはとても大切だと思います。
挑戦していれば、失敗もするし問題を起こしてしまうこともあるでしょう。その時こそ、真摯(しんし)に対応することが大事。そうすることで、誰かが必ず手を差し伸べてくれます。
差し伸べてくれた手を迷わず掴める、「綺麗な生き方」をしていきたいですね。